ぼんやり日記
ぼんやりまったり適当に今夜の献立から簡単レシピ、気になった事、好きな事を好きなように。
なにができるのだろう
今、私に出来る事って、あるのだろうか。
3.11のあの瞬間、私は都内病院内の病室で、点滴を受ける父の見舞いと言うか、様子見をしていた。
父は、抗がん剤の治療中。副作用の吐き気が酷く、3日程何も口にしていない。
私の母は気仙沼出身。
もちろん子供のころから、自分も良く遊びに行っている。
親戚も多い。
自宅からバスで30分程の駅から、母と2時間歩いて、夜の9時を回った頃家に帰宅。
弟は東京駅から3時間ちょっとで徒歩の帰宅。
携帯はほとんど使い物にならず、それでも必死に携帯を握りしめ、弟との連絡を願った。
結局、連絡がとれたのは、自宅まであと100メートルと言う頃だった。
自宅に戻ると、留守電に、気仙沼から横浜に日帰りで来ていた叔母が品川駅で孤立していると連絡が。
とりあえず連絡のついた親戚の人が迎えに出た、と言う。
びっくりしていると、帰宅困難者と化した叔母から公衆電話を使って連絡があった。
今、迎えに来てもらうのを待っている、と。
もうなにが起こっているのか分からない状態でいるところへ、テレビをつけてた途端、また訳のわからない現実が情報となって飛び込んでくる。
11時を前に弟が帰宅。
カップラーメンと言う臨時の夕飯を食べ始めた頃、気仙沼の火の海と化した映像を見た。
もう、驚いて意味が分からなかった。
当然被災地である親戚とは全く連絡が取れない。安否不明の状態で、そんな映像を見れば、
「もう、ダメかも……」とイヤな想像が頭をよぎる。
津波は、きっと高台の家だから、きっと大丈夫と、思っていた。だから、あの火の海にはもう、愕然とするしかなかった。とにかく、情報が欲しかった。
そして、幾多の揺れを感じながら、長い夜を過ごし、夜が開けるなぁと思っていた時、携帯が鳴った。
気仙沼の親戚からだった。
「やっと繋がった。東京は大丈夫? 心配してたんだ」と言う。
私は泣きそうになりながら、
「東京は無事だよ、大した被害はないんだから、そっちはどうなのっ」と。
「家のすぐ下の田んぼの下まで津波が来た。家がひっくりかえって流れてた」と震える声。
「でも、これでみんな繋がった。大丈夫、姉さんだけが、帰ってないけど、職場の近くの民宿(高台)でお世話になっているって言ってたから大丈夫」
と、必要な事を聞き、おじいちゃんは? とか聞こうとしたら電波が悪くなって、とにかくみんな無事だからまたねって、電話を切った。
そのすぐ後に、東京の親戚から電話が相次ぎ、とりあえずみんな無事らしい、と伝えていると、一人、品川で帰宅困難者になっていた叔母と逢う事が出来た、と連絡が。
14時間、品川で待ち続けた叔母は、今日新潟へ向かった。
東京駅から新潟の娘の家に向かい、明日、山形道を使って気仙沼へ送ってもらうのと言う事になった。
正直、うちでは叔母を送り出したくなかった。
まだ余震も来ると言うし、被災地の様子も分からない。
ただ、家は無事だ、と言う事だけは分かるが、そこへ向かう道が水没している。
果たしてその場所まで行けるのか。
14時間も寒いところで立ち通し、体調を崩し気味だった叔母は気丈な人だが、いくらなんでも70に近いし、
体力的に倒れるのではないかと心配だ。
こんな状況で、今、私と言う無力な人間の存在は、ただ、みんなの無事を、これ以上の天災の起こらない事を祈るしかない。
気仙沼の南最知だと思うが、海蔵寺と言う寺がある。うちの田舎の家は、おそらくこの寺より少し低いと思う。
ほぼ正面に寺を望む位置関係にあって、この位置まで洪水が来ていないのだと言うから、この近辺の方は洪水の被害には遭われていないと思います。
家屋の損壊状態は分かりませんが、農道が使えるとの情報もあるので、最知の駅は水没しましたが、この近辺はきっと多くの方が避難されている事も考えられます。
此処から避難場所へ移動している事も考えられますし、きっと元気であると信じましょう。
そして、一日も早い救助を願います。
大島の親戚とは全く連絡が取れず、同じく火の海だと報道されていました。
どうなっているのか、不安です。
みな高齢者ばかり。無事に避難できたのだろうか……。
避難していてほしい。
また揺れてますね。
関東らしいです。
3.11のあの瞬間、私は都内病院内の病室で、点滴を受ける父の見舞いと言うか、様子見をしていた。
父は、抗がん剤の治療中。副作用の吐き気が酷く、3日程何も口にしていない。
私の母は気仙沼出身。
もちろん子供のころから、自分も良く遊びに行っている。
親戚も多い。
自宅からバスで30分程の駅から、母と2時間歩いて、夜の9時を回った頃家に帰宅。
弟は東京駅から3時間ちょっとで徒歩の帰宅。
携帯はほとんど使い物にならず、それでも必死に携帯を握りしめ、弟との連絡を願った。
結局、連絡がとれたのは、自宅まであと100メートルと言う頃だった。
自宅に戻ると、留守電に、気仙沼から横浜に日帰りで来ていた叔母が品川駅で孤立していると連絡が。
とりあえず連絡のついた親戚の人が迎えに出た、と言う。
びっくりしていると、帰宅困難者と化した叔母から公衆電話を使って連絡があった。
今、迎えに来てもらうのを待っている、と。
もうなにが起こっているのか分からない状態でいるところへ、テレビをつけてた途端、また訳のわからない現実が情報となって飛び込んでくる。
11時を前に弟が帰宅。
カップラーメンと言う臨時の夕飯を食べ始めた頃、気仙沼の火の海と化した映像を見た。
もう、驚いて意味が分からなかった。
当然被災地である親戚とは全く連絡が取れない。安否不明の状態で、そんな映像を見れば、
「もう、ダメかも……」とイヤな想像が頭をよぎる。
津波は、きっと高台の家だから、きっと大丈夫と、思っていた。だから、あの火の海にはもう、愕然とするしかなかった。とにかく、情報が欲しかった。
そして、幾多の揺れを感じながら、長い夜を過ごし、夜が開けるなぁと思っていた時、携帯が鳴った。
気仙沼の親戚からだった。
「やっと繋がった。東京は大丈夫? 心配してたんだ」と言う。
私は泣きそうになりながら、
「東京は無事だよ、大した被害はないんだから、そっちはどうなのっ」と。
「家のすぐ下の田んぼの下まで津波が来た。家がひっくりかえって流れてた」と震える声。
「でも、これでみんな繋がった。大丈夫、姉さんだけが、帰ってないけど、職場の近くの民宿(高台)でお世話になっているって言ってたから大丈夫」
と、必要な事を聞き、おじいちゃんは? とか聞こうとしたら電波が悪くなって、とにかくみんな無事だからまたねって、電話を切った。
そのすぐ後に、東京の親戚から電話が相次ぎ、とりあえずみんな無事らしい、と伝えていると、一人、品川で帰宅困難者になっていた叔母と逢う事が出来た、と連絡が。
14時間、品川で待ち続けた叔母は、今日新潟へ向かった。
東京駅から新潟の娘の家に向かい、明日、山形道を使って気仙沼へ送ってもらうのと言う事になった。
正直、うちでは叔母を送り出したくなかった。
まだ余震も来ると言うし、被災地の様子も分からない。
ただ、家は無事だ、と言う事だけは分かるが、そこへ向かう道が水没している。
果たしてその場所まで行けるのか。
14時間も寒いところで立ち通し、体調を崩し気味だった叔母は気丈な人だが、いくらなんでも70に近いし、
体力的に倒れるのではないかと心配だ。
こんな状況で、今、私と言う無力な人間の存在は、ただ、みんなの無事を、これ以上の天災の起こらない事を祈るしかない。
気仙沼の南最知だと思うが、海蔵寺と言う寺がある。うちの田舎の家は、おそらくこの寺より少し低いと思う。
ほぼ正面に寺を望む位置関係にあって、この位置まで洪水が来ていないのだと言うから、この近辺の方は洪水の被害には遭われていないと思います。
家屋の損壊状態は分かりませんが、農道が使えるとの情報もあるので、最知の駅は水没しましたが、この近辺はきっと多くの方が避難されている事も考えられます。
此処から避難場所へ移動している事も考えられますし、きっと元気であると信じましょう。
そして、一日も早い救助を願います。
大島の親戚とは全く連絡が取れず、同じく火の海だと報道されていました。
どうなっているのか、不安です。
みな高齢者ばかり。無事に避難できたのだろうか……。
避難していてほしい。
また揺れてますね。
関東らしいです。
PR
この記事へのトラックバック
トラックバックURL
- << 悪夢
- | HOME |
- 歯医者~(T_T) >>
カレンダー
フリーエリア
最新記事
(07/27)
(07/21)
(07/13)
(06/22)
(10/01)
この記事へのコメント